インターナル・マーケティングの覚え書き。毎日のできごとを少し深く考えた、ビジネスのヒントを提供します。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
核武装の議論について
日本も核兵器を持つことを検討すべきではないかという論調が政府内で起こっている。

もちろん、議論のきかっけは北朝鮮の核実験である。

一般論から言って、核武装云々を議論することに制約はなく、あらゆる可能性を議論することは健全なことのように思える。タブー視して議論しないよりは、しっかり議論して判断するのが成熟した社会としては賢明のように思える。

でも、それは違うと思う。

核武装を議論しても良いように、北朝鮮に一気に攻撃を加えるというオプションもある。特殊工作員が平壌に潜り込んで自爆テロを起こすというオプションもある。

「論理的」にはいずれも可能である。

しかし、後の二つはまともに議論されることは多分ない。一般的な常識的感覚の外にあることがらだからである。

論理的には可能でも、議論されないことは山ほどある。議論の題材に出すと言うことは、無数の論理的可能性の中から、選択的に自分の意志を表明することである。

だから、政府の要人が「一般論として」という見解はあり得ない。それを題材に出すと言うことはそれをやりたい、ということとほぼ同義である。

だから、中川大臣は、日本も核武装をすべきだ、という議論をふっかけたということになる。


核武装の是非は、私には分からない。ゲーム理論を通しても解がないのではないか。

ただ私が感じるのは、日本は「核の非武装」という戦略カードを有効に使いうるポジションにいるということで、そのカードを十分に使った方が外交上有利ではないかということだ。

唯一の被爆国という経験的希少性を背景にして、経済的・技術的には可能でも意志として核を持たない、というストーリーが日本にはある。

できるからやる、金がないからやらない、という理由になるようでならない根拠ではなく、日本国の「流れ」として「核武装はやらない」という立脚点に立っていることが重要である。

そのことにより、日本という国家ブランドの特徴と、そのことによる他国とのコミュニケーションが容易になるからである。

こういう立脚点のことを、「理念」と呼ぶ。

歴史を通じて手に入れた理念をおいそれと捨てるのは、下手くそな経営者のすることである。
コメント
コメント
コメントの投稿
URL:
本文:
パスワード:
非公開コメント: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
トラックバック URL
トラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。