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孔子伝
たまに会う人との懇談の場で、今どんな本を読んでいるかという話題になることがある。

ほお、そういう問題意識なんですね、とか、そういうアンテナの張り方なんですね、と話題が広がる。

ちょっとスノビッシュな匂いはするが、一目置いている人が読んでる本は私も気になるので、会話の手がかりとしては実用的である。

たまたま持っていた本が「自分の今」のレッテルになる。

最近持ち歩いていて、本日読了したのが白川静『孔子伝』。

「ほお、孔子ですか」という反応と、「ちょっと枯れてきたんちゃう?」と二分する。

これが鞄に入っている顛末は、下記の通り。

神大の小川進先生がツイッターで『白川静読本』を紹介されていたので即購入。

その中で私淑する内田樹先生が書いておられた文章に感化される。

曰く、白川先生が孔子について記述された態度・思考は、孔子が周公について語ったものと相似形である。

優れた知恵の源泉を自分以外の先輩に求め、自分はその伝達者のポジションを自任し、「述べて作らず」という態度でいること。

この理論はワシが考えたんじゃ、という態度と対極にあるのがそもそも知性というものだ、ということ。

私の解釈なので粗雑な表現ではあるが、そういう考え方は素敵だなと感じ入る。

ということで『孔子伝』を求め、お気に入りのブックカバーに収め、ちょこちょこ読んでいたわけだ。

漢字の大家の白川先生の本であり、中国の人名や地名が頻繁に出てくるので、読めない漢字や知らない言葉が出てくる。

漢和辞典をそばに置きながら読むべきであろうが、読めないものはすっ飛ばして進む。

贅沢なフルコースを味会わないで丸呑みしたに等しいが、初めて孔子を身近に感じることができた。

孔子や孫子などの中国思想家の書物はちゃんと読んだことがないので論じる資格はないが、何となく「格言集」程度のものとの認識しかなかった。

「格言集」とは、行動の規範となるような指針がランダムに出てくるもの。

ランダムゆえに体系的な知識になりにくく、口うるさいお父さんの次元に成り下がる。

本書では、ノモスとイデアという概念で孔子の思想が説明されている。

ノモスは、法律や制度のような実用的な知識を指すと理解される。

規律や礼を重んじ、王政の基礎となった儒教はノモスとして広く浸透している。

社会を修めるのに、実務的に役立ったのだ。

一方で、ものごとの理想的な姿を追い求め、それ抽象的に記述するのがイデアである。

白川先生は、孔子が単にノモスの創始者なのではなく、イデアを追い求めた思想家であることを説いている。

そのイデアは「仁」である。

仁と言う言葉は孔子がつくったとあるが、孔子自身、明確な定義はしていないようだ。

「徳」「思いやり」「いつくしみのこころ」などで説明されるが、結局は自分自身でイメージするしかなさそうだ。

ちなみに、ノモスとしての儒教を体系化したのが孟子であり、イデアとしての深みをつくったのが荘子であることを本書を知った。

白川先生は荘子こそが孔子の後継者として評価している。

知識体系は、中心となる概念が軸としてあり、その派生形としてさまざまな記述があるというのが必須である。

中心概念があるからこそ、知識のセットとして頭にストックされ、現実に対する柔軟な応用が利く。

したがって、主張の全体を貫く中心概念は何かということが決定的に重要だ。

これはまさに、私が人に何かを説明しようというときに常に注意をし、常に壁として立ちはだかることである。

孔子の世界を知った訳では全くないが、白川先生の方法論には多少触れた気がした。

ここまで考えると、古い本が鞄に入っていても、懐古趣味でそうしているわけでないことが説明できる。

枯れてるわけちゃうよ、と言うことができるわけだ。

でも説明できるときには鞄から出るときで、今入っているのは鈴木大拙『禅と日本文化』。

やっぱり枯れてきたのだろうか?!
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