インターナル・マーケティングの覚え書き。毎日のできごとを少し深く考えた、ビジネスのヒントを提供します。
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ケータイ国盗り合戦
事業プラン検討中に出てきた話題が、「ケータイ国盗り合戦」というゲーム?サイト。

日本全国を制覇しようというものだが、その制覇の仕方が面白い。

通信しているアンテナの基地局情報から、現在地を把握するのだ。

GPSでなくてもいけるところがいけている。

普段と違うところに行ったときに、そのサイトにアクセスし、今いるところの「国を盗る」操作をする。

否が応でもサイトにアクセスするというわけだ。

本日は2つの国をゲット。

他社への訪問や出張が待ち遠しくなる。

噂によると、これにはまって「わざわざ」遠回りルートで出張する人もいるらしい。

地図のマピオンが仕掛け人のようだが、役員構成を見ると、そうそうたる大企業も連なっている。

なんだかいろいろな可能性を感じる遊びサイトである。

iPhoneは蚊帳の外なのが残念。

iPhoneからすると、GPSもついているしグーグルマップもあるし、こんなしょぼいものよりずっと良いものができるぞ、ということか。

でもこのしょぼさ、手軽さは実は大事な価値。

これが日本でのケータイの侮りがたい実力だろう。
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リーダーの選び方
WBCの日本代表の監督が巨人の原監督に落ち着いた。

「日本代表は誇りであり、あこがれ」という就任時のコメントは、まさに組織人の鑑である。

もめにもめて誰もやりたがらず、微妙な落としどころの標的になったのが原監督。

しかも渡辺会長にもあんまり歓迎されていないようで、「原君は普通の人」なんて言われている。

シニカルな言葉の一つも吐き出したくなるところだが、先のコメントを出せる原氏は「大人」である。

読売グループの人事異動とか言われて解任されたにも関わらず、復職してからしっかり結果を出す。

腐らず、明るく、前向きに。

これぞリーダーだ。

残念ながら橋下知事は足元にも及ばない。

結果はどうあれ、原さんを応援したい。

私の中の日本人的義理人情スイッチが入ってしまった。

そんなウェットな感情にひたっていたら、地球の裏側でえらいことになっている。

大統領選挙の話ではなく、サッカーの話である。

アルゼンチンの代表監督がマラドーナになった。

この選出ロジックとプロセスはどうなんだ。

落としどころなんて概念が全くない、強烈な破壊力を持った人選である。

パスなんか出さずに、ディフェンス5人くらい引き連れてゴールしたようなものだ。

こういうカルチャーを背負ってなきゃ、きっとサッカーは勝てないのだろう。

グリーンスパン氏
金融混乱の戦犯として、元FRB(連邦準備制度理事会)議長のグリーンスパン氏がやり玉に挙がっている。

行き過ぎた規制緩和で、いい加減なビジネスを野放しにした、という罪である。

87年のブラックマンデーを乗り切った功績者と言われていたが、今では完全に悪者扱いである。

今年1月の日経新聞「私の履歴書」はグリーンスパン氏であった。

まさか今年の最大トピックを見越していたわけではないだろうが、タイミングとしては興味深い。

来年掲載であれば、「敗軍の将」状態だっただろう。

かくがごとく、仕事の評価は難しい。

規制緩和は最近旗色が悪く、米国大統領選挙でも、規制緩和発言は票を失うらしい。

当然、小泉改革も同じ文脈で批判されそうな気配である。

何か事件が起こると、その原因を探り、功労者や犯人を探すことになる。

逆に言うと、事件が顕在化しない限り、功労者も犯人もいない。

プロジェクトXの主題歌、中島みゆきの『地上の星』は、そのような目立たないヒーローを称えている。

その割に、番組は思いっきり美化した演出になっていたが。

みんなの努力で、普通に市場経済が進んでいることの素晴らしさを、改めて感じる必要がある。

そして、「賢愚は他人の領分」で、結果がどうあろうと子供達への説明責任だけは果たせる仕事をしていきたい。
エコバッグ
最近、妻がエコバッグを使っている。

スーパーのポリ袋を使わないので、環境によろしい。

なかなかの心がけである。

こうなると、エコバッグを使っていない人が気になるが、そこは教条主義にならないように気をつけなければならない。

ポリ袋をもらわないようになって、問題が発生。

台所の生ゴミを捨てる袋がなくなった。

これまではゴミ捨て用にポリ袋をストックしていたのだ。

そこで、ゴミ捨て用の袋を別途買おうかということになる。

これじゃ環境に悪いじゃないか!

環境と生活の折り合いはなかなか難しい。

ユニバーサルデザイン
たまに凄く短いエスカレーターがある。

東京駅構内の新幹線乗り場付近にもあるようなやつだ。

若いときは、こんな短いエスカレーターなんか使わずに階段使えばいいじゃん、と思っていた。

年齢を重ねて分別が付き、ユニバーサルデザインなる概念を知ると、考えが変わる。

ちょっとした段差でも乗り越えるのがつらい人がいる。

そういう人が快適に移動できるためには、短くてもエスカレーターは大事である。

さらに、本日のようにキャスター付きの重い荷物を持っていると、ありがたさを実感する。

階段をなるべく避けようとしても、次々と段差がやってくる。

小生のカバンの構造上、いちいち面倒くさい操作をする必要もあり、段差なし社会の必要性を大いに感じる。

そういえば、自分を含めて仕事道具を転がして運ぶ人が増えた。

パソコンは小型になっても、付随する資料はアナログのままなので、結局モバイル型ワークをするには、大きな荷物が必要なのだろう。

そのうち、電動モーター付き自走カバンなんかが出るかも知れない。

こりゃいい考えだと思ったが、さらにカバンが重くなりますね。
40代が古着を買う心理的変遷
突然古着に興味を持ち、ネットで買ってしまった。

70年代のアメリカ製シャツ、一応ビンテージもの(らしい)。

古着は学生の時に買ったことはあるが、まさか40を超えて買うようになるとはつい1週間前までは予想だにしなかった。

なぜこのような心理的変遷が起こったのか、自己分析してみたい。

きっかけはパナマ帽である。

昨年買って、今年も秋口の強い日差しをよけるために積極的に着用していた。

何となく帽子に馴染んできた感があり、家族からもそう言われると、まんざらでもなくなり、帽子に似合う服、というテーマがムクムクと立ち上がってきた。

もう一つのきっかけは、もちづきさんから「南米系だよね」と言われたことである。

和風でも、しゃれたヨーロッパ風でもなく、熱い日差しの中、派手なシャツとバスケットっぽい素材のアタッシュケースを持った怪しい売人のイメージだ。

なぜか「悪くない」イメージだ。

かくして、「パナマ帽+派手なシャツ」という組み合わせのセルフイメージが形成された。

ネットでなにやら検索していると、「アメカジ」というキーワードに出会う。

さらにネット上を漂っていると、古着とかビンテージという世界があり、hatenaなんかでも、40歳に合う古着ありますか、なんていう質問が掲載されている。

ブランドとか仕事上うんぬん、ということを離れてこんなに楽しく服に関心を持ったのは始めてかも知れない。

とりあえず、派手目の中でも無難っぽく、かつ程度が良さそうなヤツを購入。

2日後に到着。

70年代である。

パッツンパッツンである。

着るとステイン・アライブ(by The Bee Gees)が鳴り出す。

やり過ぎた、、、と思いきや、家族はまあいいんじゃないの、という感想。

語彙の少ない長女は「ギターを弾く人みたい」。

翻訳すると、ミュージシャンぽいということだ。

さて、いつ街に出ようか。。。
京阪中之島新線
開通したばかりの京阪中之島新線に1駅だけ乗ってみる。

地上に出現した新しい木質の出入り口は、新たな景観としてとても良い感じ。

水の都大阪には、きれいなものが似合うんですよ。

府立図書館に寄ったついでに、大江橋駅に入る。

駅の中も木の感じが良いが、駅は駅なので、まあ普通である。

サンドイッチのサブウェイが構内にあって、昼時にもかかわらずガランとしていて、呼び込みの声が響いている。

ホームも電車もやっぱり普通で、渡辺橋で降りる。

ICカードPITAPA利用なので、運賃は分からない。

渡辺橋駅でもサブウェイがあって、さらにマクドナルドもある。

ここも混んでない。

ショップにしては、いささか当てがはずれた感じだろうか。

路線的にも、ガンガン人が乗ってくるようなものではない。

結局、川に挟まれて顔を出している出入り口の存在感が一番のアイデンティティであることを確認。

駅ができたことで、道行く人も東西に流れる川を意識するようになる。

そして、大阪のビジュアルイメージが変われば良い。

カニとかタレントになった人形とかじゃなくて。
自転車快調
ここのところ、自転車に乗れる頻度が上がって喜ばしい。

季節的にはもっとも良い感じ。

日曜日の朝は交通量少なく、さらに快適。

スピードが上がり、スイスイである。

小一時間の通勤で全身に血が巡り、細胞が目を覚ます。

やや疲れ気味くらいのときでも、自転車に乗った方が元気になる。

スピードが上がると、ヒヤッとする場面にも遭遇する。

自動車の左側を通り抜けるとき、突然ドアが開いて急ブレーキ。

ぶつからずに済んだが、先を急がず、無理せずという心がけが必要。

スピードへの闘争心はほどほどに、怪我せずに付き合っていきたいものだ。
学力テスト
大阪府知事に橋下氏が就任して、大阪の行政に対する注目度は全国レベルなっている。

衆人の目に触れるほど美人は磨かれるというので、注目されるのは良いことだろう。

最近、話題を振りまいているのは、学力テストの結果公表問題。

わが家の吹田市は市長が頑張って反論したので、公開されないようだ。

橋下氏いわく、「吹田の子供はかわいそう」らしいので、小学生の親としては、不利益を被らないよう、子供の学業にもう少し関心を持とうと思う。

いずれにしろ、いろいろな識者の声がある。

新聞で見かけたある大学教授によると、結果公表など「とんでもないこと」だそうだ。

教育現場がテストの点数至上主義になり、本来の教育が歪むからである。

確かにそういう展開もありうるだろう。

企業では、売上目標とか利益目標があり、たいていの場合、成績はガラス張りであり、誰がアガっているか、サガっているか、一目瞭然である。

その達成度を上げるべく、みんなのお父さん、お母さん達は頑張っているのだ。

だから数字目標を掲げることで顧客不満足が多発するかと言えば、そうことにはならない。

企業理念、事業コンセプト、社会倫理などが行動規範になって、頑張って競争的な活動はするが、本来の事業がガタガタに歪むと言うことはない。

ただ、その精神上の押さえがなくなると、偽装や架空売上などの犯罪に手を染めてしまう。

そうならないようにする砦は、システムではなく、マネジャーひとりひとりの言動である。

だから、校長先生をはじめ、先生方がちゃんとしていたら、テスト結果を公表したとしても、おかしなことにはならないだろう。

そのくらいの信頼は、先生方に置くべきだろう。

ということで、先生方には、是非とも魅力的な存在になっていただきたいと思うのである。
ウズベキ戦引き分け
サッカー日本代表の試合はもどかしい。

おじさん精神としては、ラモスとカズのときが良かった、と懐古趣味に陥ってしまう。

カズなら絶対決めてるぜ、とか。

若者からすれば、僕らが子供の時「釜本はすごかった」と言われているのと一緒だと理解しつつも、そう信じる自分がいる。

解説でセルジオさんがいろいろ言っていること、選手達は百も承知なんだろうなあ、きっと。

それでもなんか、ああなっちゃうんだろうなあ。

サッカーは日本人に向かへんのやないかと、かなり前に元吉本興業の木村政雄氏も講演で言っていた。

サッカーはもっと俺が俺が、というヤツじゃないと点取れないんじゃないかと。

この意見、今なら同調する。

絶対にトヨタ社員にはなれなさそうな人間じゃないとダメかも。

本日、単なるぼやきネタでした。
ミルフィーユ構造
金融不安の沈静策は、目下のところ国家による公的資金投入である。

報道ニュースで「マーケット」と言えば株式相場か為替相場のことを指すので、金融は市場社会の象徴だ。

それが国家管理の色彩が強くなると言うことは、市場経済が中心の社会から政治中心の社会になることを意味する。

政治の思わく、国家の利益、政治家を選ぶ投票権のある国民の利益と言うことが、株価やROEといった個別企業の株主利益に優先する傾向になる。

例えば、希少資源の輸出禁止や、国内産業保護のための輸入障壁が設けられる。

市場社会の一つ上のレイヤーに「管理社会」が乗っかるのだ。

また、企業間取引は市場取引でも、企業内部は指示命令が通用する「管理社会」だ。

「企業内部-企業間取引-国家」の構造は、「管理社会-市場社会-管理社会」のサンドイッチ的構造になっている。

ということは、僕らの生きる社会は誰かに管理されている管理的社会なのか?

いやいや、自由意識を基にした、予定調和的でないダイナミックな将来可能性を秘めているだろう。

それでいて、困ったときには自発的に互いを助け合う共同体でもあるだろう。

僕ら一人一人は、他の人に価値を提供したり助け合ったりする精神を持っているはずだ。

「他の人」を「顧客」に置き換えれば、これはまさしくマーケティング・マインドだ。

マーケティングは儲けるための方策ではなく、他者に生かされているという市場社会の根本精神の考え方を示している。

僕らの上に管理社会レイヤーがあるとしても、僕ら自身はマーケティング的、市場社会的精神を持ち続けなければならない。

先ほどのサンドイッチ構造に「僕ら」を加えると、「僕ら-企業内部-企業間取引-国家」の構造が、「市場-管理-市場-管理」のミルフィーユ的構造になる。

このミルフィーユの一番底になる、僕らひとりひとりの最下層レベルに「市場」があれば、なんとか将来に期待が持てるのではないだろうか。
どんぐり村
九州の義理の両親のところに来ている。

爽やかな秋晴れで、鱗雲が美しい。

佐賀まで足を延ばし、「どんぐり村」なるところへ行く。

子供連れで賑わっていて、結構メジャー感のある施設である。

かなり広くて起伏が激しいので、足腰強い人にお勧めである。

九州とは関係がないが、ブログのコメントが毎日荒らされる。

送信されているホスト名を指定すると拒絶できるのだが、いくら拒絶しても新たなところからやってくる。

都度消すのだが、その度に、結局そのような言葉や情報に触れてしまう。

その記憶が蓄積し、ブログのモチベーションが下がる人もいる。

キーボードをちゃんと叩いていないコメントは×にするような仕組みとか、画期的な対策はできないものか。
株価下落
世界的な株価下落が止まらない。

米GMの低迷が、従来の超優良企業の没落が金融不安に輪をかけ、経済社会そのものへの不信感が形成されたようだ。

87年のブラックマンデーや日本のバブル崩壊時と現在が違うのは、なんといってもインターネットだ。

情報が早く途上国を含めた隅々まで行き渡り、人々の意思決定や行動が機敏になり、ちょっとした傾向が大きく加速する。

人気あるものは絶賛され、欠陥があるものは罵倒される。

分散していたイナゴが大群になり、世界を駆けめぐっているようだ。

さらに、ビジネスモデルの有効性も大きく変わる。

今や流通の雄となっている大型量販店や家電量販店も安泰とは言えない。

商品がたくさんあることだけでは、もはや魅力にならない。

万国博覧会の意義がなくなったのと同様である。

品揃えも価格情報も、使い勝手情報も、ネットにはかなわない。

商品の希少性、工事・メンテナンスの地域密着サービスは地場の小規模事業者に分がある。

物流網が細かく機動的になればなるほど、一カ所に在庫を持ち、そこにわざわざ購買に行くという行動様式は必要なくなる。

ネットと小規模事業者で構成するビジネスシステムが、量販店を過去の遺物にしてしまう可能性は十分にある。

インターネットが世の中を大きく変えると常々言われてきた。

それが地殻変動の域に達してきたようだ。
ビジョン
朝刊に、お世話になっている会社の大合併記事があって驚く。

市場環境は巡るしく動き、それに伴って誰がライバルで、誰がパートナーかの構図もどんどん変わる。

現状を固定的に考えていては、気がついたら周りに誰もいなくなっていたということになる。

会社という枠組み、今のビジネスシステム、今の仲間、今のお客さんが明日もそのままとは限らない。

そのときにあたふたしないような心の構えが必要だ。

変わることが当たり前であり、常に何かを仕掛けること。

変わることは、何かを失うことだが、新たに何かを得ようとすること。

次は何をどんな風に得ていこうか。

それがビジョンだ。

ビジョンがないと苦痛すぎる。

無常感にさいなまれる。

あわただしい現代こそ、ビジョンが必要だ。
情報の後入れ先出し法
話題が豊富で、いつも新しい情報を仕入れているなあと感心する人には特徴がある。

直前に話題にしていた話をすぐ口に出すことだ。

例えば、昼食中の雑談を昼一番のレクチャーで紹介する。

あるいは、昨晩の飲み会の話題を話のマクラに使う。

話が上手な人は、仕入れた情報をすぐ自分の話として使う。

セミナーなんかで、話す内容をガチガチに決め込むと、こういう芸当はできない。

コツは、情報は新鮮なうちに外に出すこと。

大事に抱えていて、いつか話そうでは話題が陳腐化する。

聞いたり見たりしたことはすぐ言葉にすべきである。

名付けて、「情報の後入れ先出し法」

これは結構使える原理原則だと思う。
iPhoneその3
iPhoneがお隠れになった次の日、某社会議室で発見された。

見つけていただいた皆さん、本当に感謝申し上げます。

脱いだジャケットを無造作に椅子の上に置いていたときに、ポケットから滑り落ちたらしい。

薄くてすべる、というのが弱点であることが分かる。

薄さは魅力でもあり、その姿形もキレイなのだが、落としやすいというデメリットもあることが今回判明。

さらに昨日は車の中で鞄からスルリと落ちた。

対策はすべりにくい服を着せること、である。

購入時に合わせかったシリコンジャケットが野暮ったいので使わないでいたが、復活。

しかし、やはりスリムなスタイルを愛でていたいので、もっとボディコン(←死語?)なやつを探索中である。

フィギュア好きの人の感性がなんとなく分かってきた。

オンラインのアップルストアでいろいろあるが、実際に目で見て買いたい。

心斎橋に行かなくちゃ。
京都和風建築
京都の木造建築の達人のお話をお聞きする。

設計施工はもちろん、材木を自社で抱えていて、最低10年自然乾燥させた最高級の木材で仕事をする。

材木倉庫は、さしずめ建築木材の図鑑である。

お宅も拝見させていただいたが、「本物」の町屋建築を好きにならない日本人はいない。

風情しかり、100年の月日をものともしない構造しかり。

住宅の10年保証という世界が鼻で笑われる。

残念ながら木造建築の設計技術は若者に受け継がれていない。

需要がないので仕事がなく、職人も育たない。

和風の家が良いなと思っても、年を取るとやっぱり腰掛けの方が楽だとか、陰気な感じがするとかの障害が立ちふさがり、近代建築に軍配が上がる。

しかしながら、日本人のDNAに根ざす木造建築が消えていくのはあまりにも惜しい。

惜しすぎる。

ここは一つ、後生に技術を残すためにも、現代生活に適合した設計を考えていただきたいものだ。

「公」に頼った天然記念物としての保護ではなく、市場メカニズムが支える伝統の残し方があるはずだ。

畳のないマンション暮らしの遠吠えであるが、達人先生のエネルギーを持ってすれば何とかなると思うのである。

だって、その家が本当に素敵なんだから。
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