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大阪都構想
大阪の橋下知事が提唱している”大阪都”構想をざっと勉強してみた。

大阪都構想とは、現在の府と市の行政単位を解体し、大阪市を中心に、小生も住んでいる吹田市や豊中市などを巻き込んだ20区ほどの特別区からなる「都」に再編するという構想。

名前の通り、東京23区をモデルとした仕組みであり、それぞれの区長・区議は選挙によって選ばれる。

賛同者もいるが、平松大阪市長から「妄想」呼ばわりされたり、岡田民主党幹事長から「地方主権に反する」と批判されている。

小生の理解した論点は下記3点。

(1)大阪府と大阪市の行政が重複していている非効率解消

(2)270万人の政令指定都市に”自治”を導入

(3)東京一極集中から脱する道州制への展開


■(1)大阪府と大阪市の行政が重複していている非効率解消

大阪府は大阪市と堺市の2つの政令指定都市を持つ。

政令指定都市はほぼ都道府県と同じ行政の権限が与えられていて、独立性が高い。

それぞれが独自に生活インフラや施設を企画し、建設する。

そうなると図書館や体育館も重複してできる。

仕事柄よく使う図書館も、近所に府立と市立がある。

それぞれ特徴はあるのだが、一つであればより便利。

ただし、オフィスに近いところにという条件で。

都道府県と政令指定都市の重複は、別に大阪に限ったことではない。

でも、北海道と札幌市のダブり感が問題になっているとは聞いたことがない。

札幌と札幌を除く北海道との環境の違いは歴然で、行政を分ける意味はありそうだ。

政令指定都市制度は、その他の都市から突出しているときに有効に機能する。

大阪が特に問題になるのは、周りの市との差が小さく、府と市のダブり感が強いからだろう。

そもそも大阪府の面積は都道府県の下から数えて2番目。

そんな小さいところで府と大阪市と堺市がそれぞれ勝手にやってどうするんだ、もっと全体眺めて効率的に資源配分しようということだ。

重複感を避ける事に関し、「都」構想への対案は、そもそも政令指定都市は勝手にやるのだから、府の守備範囲から完全に切り離そうというもの。

重複を無くすにはそりゃそうだが、それでは東京のような統一的なコンセプトを持った広域都市機能ができないというのが「都」陣営の再反論。

それに対する平松市長の反論は、広域は府の単位じゃなくて京都や兵庫も含むでしょ、先にもっと近隣府県と連携してください。

よって、単なるダブりの解消を超えた(3)の道州制の論点に展開する。


■(2)270万人の政令指定都市に”自治”を導入

政令指定都市には区があるが、区長は選挙によって選ばれるのではなく、役人の人事異動で2年ごとに変わる。

結果、大阪市270万人の市政において、選挙で選ばれるのは市長ただ一人。

「民意」を背負った一人のトップが270万人に目配せするのは不可能で、これでは自治とは言えないだろう、という論点。

諸研究によると、30万人くらいに一人の首長が良いようだ。

よって、30万人×20区くらいに分割して、それぞれの区長は選挙で選ぶべきだというのが「都」構想。

これに対する反論は、そんなことしたらそれぞれの区に必要な機能が重複して、行政が非効率になりますよ。

また、区議選挙もするので、議員がめちゃくちゃ増えますよ。

区の自治というが、結局府に権限を吸い上げる中央集権の思想でしょ、という反論も。

自治の理念とは何か、権限の集中と委譲はどのようなシステムが最適かという、大阪の問題というより理念の問題だ。

のんびりした大阪にはもっと身近に議員さんがいて街のあり方を議論した方がいいと思うので、これについては小生「都」構想を支持。


■(3)東京一極集中から脱する道州制への展開

「都」という言葉が象徴するように、橋下さんの根底にはこれがある。

東京の永田町と霞ヶ関が日本全国の基本構想をつくるのではなく、州ごとに金と企画の独自性を持たせようという大きな構想。

大阪を東京に匹敵する「都」にして、その流れで関西にもう一つの極をつくろうということだ。

根底では、平松市長ともこの点については方向が同じように感じる。

彼は、そこに行き着くプロセスとしての「大阪都」には反対という立場を取る。

関西に漂う傍流感、のんびり感、あきらめ感を思うと、小生のような外様の移住者にはこのくらいの大構想が良いと思う。


「都構想」は、制度だけ変えたって何も変わらないとか、知事が押しつける身勝手な構想とか、構想としてのお行儀はあまり評判よろしくない。

でも、保守的に何もしないことのリスクの方が高いと感じる一つの民意をここに記したい。
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孔子伝
たまに会う人との懇談の場で、今どんな本を読んでいるかという話題になることがある。

ほお、そういう問題意識なんですね、とか、そういうアンテナの張り方なんですね、と話題が広がる。

ちょっとスノビッシュな匂いはするが、一目置いている人が読んでる本は私も気になるので、会話の手がかりとしては実用的である。

たまたま持っていた本が「自分の今」のレッテルになる。

最近持ち歩いていて、本日読了したのが白川静『孔子伝』。

「ほお、孔子ですか」という反応と、「ちょっと枯れてきたんちゃう?」と二分する。

これが鞄に入っている顛末は、下記の通り。

神大の小川進先生がツイッターで『白川静読本』を紹介されていたので即購入。

その中で私淑する内田樹先生が書いておられた文章に感化される。

曰く、白川先生が孔子について記述された態度・思考は、孔子が周公について語ったものと相似形である。

優れた知恵の源泉を自分以外の先輩に求め、自分はその伝達者のポジションを自任し、「述べて作らず」という態度でいること。

この理論はワシが考えたんじゃ、という態度と対極にあるのがそもそも知性というものだ、ということ。

私の解釈なので粗雑な表現ではあるが、そういう考え方は素敵だなと感じ入る。

ということで『孔子伝』を求め、お気に入りのブックカバーに収め、ちょこちょこ読んでいたわけだ。

漢字の大家の白川先生の本であり、中国の人名や地名が頻繁に出てくるので、読めない漢字や知らない言葉が出てくる。

漢和辞典をそばに置きながら読むべきであろうが、読めないものはすっ飛ばして進む。

贅沢なフルコースを味会わないで丸呑みしたに等しいが、初めて孔子を身近に感じることができた。

孔子や孫子などの中国思想家の書物はちゃんと読んだことがないので論じる資格はないが、何となく「格言集」程度のものとの認識しかなかった。

「格言集」とは、行動の規範となるような指針がランダムに出てくるもの。

ランダムゆえに体系的な知識になりにくく、口うるさいお父さんの次元に成り下がる。

本書では、ノモスとイデアという概念で孔子の思想が説明されている。

ノモスは、法律や制度のような実用的な知識を指すと理解される。

規律や礼を重んじ、王政の基礎となった儒教はノモスとして広く浸透している。

社会を修めるのに、実務的に役立ったのだ。

一方で、ものごとの理想的な姿を追い求め、それ抽象的に記述するのがイデアである。

白川先生は、孔子が単にノモスの創始者なのではなく、イデアを追い求めた思想家であることを説いている。

そのイデアは「仁」である。

仁と言う言葉は孔子がつくったとあるが、孔子自身、明確な定義はしていないようだ。

「徳」「思いやり」「いつくしみのこころ」などで説明されるが、結局は自分自身でイメージするしかなさそうだ。

ちなみに、ノモスとしての儒教を体系化したのが孟子であり、イデアとしての深みをつくったのが荘子であることを本書を知った。

白川先生は荘子こそが孔子の後継者として評価している。

知識体系は、中心となる概念が軸としてあり、その派生形としてさまざまな記述があるというのが必須である。

中心概念があるからこそ、知識のセットとして頭にストックされ、現実に対する柔軟な応用が利く。

したがって、主張の全体を貫く中心概念は何かということが決定的に重要だ。

これはまさに、私が人に何かを説明しようというときに常に注意をし、常に壁として立ちはだかることである。

孔子の世界を知った訳では全くないが、白川先生の方法論には多少触れた気がした。

ここまで考えると、古い本が鞄に入っていても、懐古趣味でそうしているわけでないことが説明できる。

枯れてるわけちゃうよ、と言うことができるわけだ。

でも説明できるときには鞄から出るときで、今入っているのは鈴木大拙『禅と日本文化』。

やっぱり枯れてきたのだろうか?!
マイレージ、マイライフ
ジョージ・クルーニー主演の『マイレージ、マイライフ』を見る。

鼻の手術の後で匂いも味もせず、運動も控えるように言われているので、映画くらいしかやることが思い浮かばなかったのだ。

日本語になりにくい原題をそのままカタカナにしたのだろうと思ったらさにあらず。

映画冒頭に映るタイトルは"Up In The Air"である。

これまた日本人には分かりにくいタイトルだが、それを日本語に訳すのではなく、英語(カタカナ)に置き換えるところがニクい。

日本人の分かる英語ボキャブラリーの範囲に転換したということだ。

明治の時代、欧米の外来語を大和言葉ではなく、漢語に訳したのが日本人の知恵であるようなことを内田樹氏は書いておられた。

「哲学」とか「情報」とか。

現代人は先人の漢語のレベルまで英語を取り込んだのか?

さて、以降ネタバレしない程度の感想。

最近"Avator"とか"This Is It"のような非日常映画を見たこともあり、この映画の日常性に目がとまる。

ビジネス界のできごとは、アメリカ人も日本人もやってることはほとんど同じだ。

等身大のビジネスマン(もちろんジョージ・クルーニーの格好良さは別として)が良く描かれていて、オジサン年齢には容易に感情移入できる。

ビジネスのスタイルはどんどんグローバルで平準化してくのだろう。

そこにはキャッチアップ型の「憧れ」や「眩しさ」はなくなり、平坦な日常が蔓延していく。

わくわくするような次世代のビジネススタイルを果たして僕らは作りうるのだろうか?

もう一つ。

主人公の職業は「解雇言い渡し人」で、失業やら家族の不在やら、ほろ苦い話がたくさん出てくる。

解雇を言い渡された人の心情、態度、発言は、日本人もアメリカ人も変わらない。

それは十分に深刻な話なのだが、不思議と根底にアッケラカンとした明るさがある。

頑張りゃなんとかなるさ、といった明るさだ。

それゆえ、見終わった後にじわじわと元気が沸いてくる。

このなんとかなるさ感は、社会に絶対的に必要だ。

国の保証に頼ったりするのではなく、自分の頑張りで道が拓けるはずという心理的セーフティーネットだ。

ここのところが、ちょっとばかり日本の雰囲気と違う。

これは子供手当とか公共事業による有効需要創造とかの話ではない。

この「明るさ」の基は何なんだろうということをアッケラカンと考えていきたい。
『20世紀少年』
昨日『20世紀少年』全巻を大人読みして、今日は映画『アバター』を見る。

ハードディスクデータの完全消去のために大量の文字を書き込むように、人間の頭にも大量の情報を流し込むと余計なこと考えなくなってスッキリする。

まずは『20世紀少年』の感想。

近所にある万博公園の太陽の塔でその映画のイベントをやったことくらいしか知識がなかった。

はしもとさんより強く勧められて、おもむろに読み出したが、読み出したら止まらない。

家族そっちのけで22巻一気に読破。

なるほど70年の万博は重要なモチーフだ。

小生より数年上の世代、多分作者の浦沢直樹氏と同世代が主人公で、時代感がリアルに共有できる。

読み進めるうちに、『1Q84』との共通点に気づく。

まずタイトルが、過去の他者の作品から採られている。

『20世紀少年』はT・レックスの曲、『1Q84』はジョージ・オーウェル。

また、どちらも世間常識から隔絶された宗教団体が敵役として出てくる。

そして、少年時代の思い出と現実が交錯するように話が進む。

子供の頃の行動や感情が、大人の自分を拘束もするし、勇気づけもする。

歳を重ねるにつれ、過去が増えていき、その過去と対話しながら生きることになる。

自分は何者か、何者だったのか、何をなし得るのか、ということを自問しながら生きる。

たまたま最近出会った作品の共通点だが、生きる指針は外側にはなく、自分の中に見つけていくものだという時代の空気を感じる。

それをそのまま伝えても面白くも何ともないが、浦沢氏の漫画になるととてつもないエンターテイメントの姿をして現れる。

このような入り組んだ話をエンディングまでもっていくストーリーテリングの技はすごいものだ。

余韻がありすぎのエンディングなので、続編の『21世紀少年』もいずれ読まなくてはと思う。

『アバター』ついてはまた今度。
1Q84
時代に遅れながら、村上春樹の『1Q84』を読み進める。

完全にハマった。

長編小説を読むのは何年ぶりだろう。

いつも読むのは仕事関係の本で、これは超特急斜め読みが常である。

表面をさらっと目に焼き付けて、引っかかったところに付箋を貼るという作業だ。

自慢じゃないが、そのような技能はかなり高いレベルにあると思っている。

小説はこういう訳にはいかない。

登場人物の内面に入り込み、自分の心で育て、自分と照らし合わせながら人生を考える。

ぼんやりと、かつ小刻みに変化する心の動きをこのような言葉で表すのか、という驚きがある。

ルーペで見るとランダムなYMCKの色が、全体としては意味を持つ画像になるように、言葉の組み合わせで「言葉にならない」ものを描き出す。

このようなプロの仕事に圧倒される。

深い人間の内面に切り込むような言語活動がビジネスでできるだろうか。

もちろん、そうしたいと思っている。

その願望をどの程度実現できるだろうか。

ハードルの高いテーマである。
『こころ』
ほとんどiPhone中毒になっている現象の一つとして、電子ブックのアプリを入れている。

青空文庫からダウンロードした夏目漱石の『こころ』を読んでいる。

日経新聞の夕刊で取り上げられていて、舞台が雑司ヶ谷ということもあって興味を持った。

雑司ヶ谷は初めて東京へ受験に行ったときに泊まった辺りだ。

電子ブックはフォントが選べ、背景も古紙調にできるなど、なかなか良い感じだ。

本日、京都の仲人さんのお宅にお伺いした際、偶然にもお互い夏目漱石を読み返しているというお話になった。

『こころ』は今流行っているらしいが、最もつまらない部類というのが氏の評価だ。

お奨めの『草枕』にもトライしよう。

若い頃読むのと、ある程度経験を経てから読むのとでは、感じ方が全然違う。

特にビジネス文書ばかり読んでいると、文学は新鮮だ。

漱石のような言葉で事業のビジョンを描いてみたいものだ。

2年振りにお会いした85歳の先輩と共通の話題があったことが、大変嬉しい祭日であった。

山中能舞台
昨夜、男前経営塾の例会で、能というものに始めて触れる。

日本伝統芸術にはとんと疎い小生であるが、大いに期待感を持って参加。

事前学習が必須と思い、書店に行くも、どこを探して良いか分からない。

カウンターに行って検索すると、「能力なんとか」の類が一杯出てきて収拾が付かない。

あきらめてPCに向かい、wikipediaを見る。

知りたいことが要領よくまとまっている。

知識の社会的インフラが変わっていることを、改めて実感する。

夜、西田辺の山中能舞台にお邪魔する。

かわかみさんのご尽力で、重要無形文化財総合保持者の山中雷三先生と、息子さんの雅志さんの舞を見せていただく。

雅志さんのわかりやすい解説で、能をある程度理解した気になる。

面(おもて)を付けさせていただいたり、舞台に上げていただいたりと至れり尽くせり。

子供の頃、能面が怖くて仕方がなかったが、少し親近感が湧く。

面を付け、デフォルメされた動きが、逆になんとリアルなことか。

動かない面と、非日常的な動きに、観客は自らの想像の世界を映し出す。

観客が勝手に想像し、勝手に怖がり、自発的にあちらの世界に行ってしまうのだ。

死語の世界などのあり得ない世界をいかにリアルに感じさせるか。

その技法として、現代のアニメーションに通じるのではないか。

見事にはまった。

雷三先生、雅志さん、宴会もおつきあいいただき、どうもありがとうございました。
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